僕に言わせれば、誕生日とは「建前」である
何の建前かはまた後で書くとして、とりあえず、誕生日を笑顔で祝うことそのものに対して、僕は批判的に考えてみようと思う
そもそも誕生日が必ずしもめでたいことである必要はない
これは当たり前、年を取るのが嫌な人もいるから
僕が言いたいのは、誕生日が到来したことにより、何らかの心理的な変化を起こさなければならない必然などありはしないということです
何故なら、「誕生日」という概念自体、人為的なものだからです
たまたま、時間単位として「生まれてから一年の日」として誕生日があるわけですが、そもそも「一年」というのも、「日」というのも、ある程度の自然との関係はあれど、人間が作ったものなのです
人が作ったものなら、それに必ずしも人である僕たちが喜んだり悲しんだりしなければならない道理はないと思います。それは喜ばされたり悲しまされてることとそう大きな違いはないような気がします
また、現在の日本では、「ただ生きる」ことはそれほど難しいことではないように思います
ガキの僕が言うのも何ですが。
今は、「とりあえず生きる」ことよりも「どう生きたか」が重視される時代だと思うのです
断定は禁物でしょうが、ほとんどそうであるらしい気風が、世の中にはあると思います
とするなら、僕たちは誕生日を、「到来してしまったもの」と恥じるべきではないでしょうか
まあ「恥じる」というのは多分に僕の美意識を含んでいますが
まず生きることが難しかった昔の人にとって、人生とは深い森を掻き分けて進んでいくような、そういうものであったような気がします
しかし、私たちは、こんな時代ですから、人生を俯瞰することができます
というか俯瞰することをほとんど強制されているような気さえします
成長とはリミッターのタイマー音
私たちは私たちの終着点をある程度予測することが出来てしまうのです
そしてそれは時間と共に正確になっていきます
しかし上記のことは、別に誕生日でなくてもできます
一年の計は元旦にありですから、人生を省みるのは何も誕生日じゃなくてもいいと思います
なら誕生日とは何か?
それは建前です
愛情確認の建前です
誕生日にはとりあえず「おめでとう」なのです。これはもう決まっているのです、何故か
僕はそこに、飲み会で肩を借りながら、「お前、俺のこと好きかぁ?」と聞く行為を連想します
相手としては「好きだよ」と言うしかありません、そんな感じ
しかしそう思ってみても、「誕生日おめでとう」の一言はやはり嬉しいものなのです
やっぱり嬉しいものなのです
そんな自分に萌えぇぇえええええ~(´∀`*)
色々と日本語がおかしいのは眠いから。多分そう
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